某月某日
ある時、気に入って読んでいるサイトの作者にメールを出した。「あなたの書いている日記には、無駄な言葉が無い。それは、書いてから削り込んでいるのですか、それとも、いきなりそういうものが書けるのですか?」
答えは、「言葉は、降りてくるんです」そういうようなものだった。
伝えるための工夫や推敲は、所詮枝葉を整えるものでしかない。幹になる部分は、その人の言葉を借りれば、まず、降りてくるのだ。僕なりの解釈で言えば、降ってくる、といった方がしっくりくるかもしれない。唐突に、一方的に、偶然みたいに、降ってくる。下手をすると、捕まえ損ねる。
降ってきた言葉をうまく捕まえて、文章としての形にする。どれだけ巧くそれができるか、というのは、センスと経験にかかっている。しかし、それがいくら巧くなったとしても、何の意味もない。「巧いね、とても」それだけ。
僕自身には、そういう降ってきたものを、巧く文章のカタチにする才能はあると思う。いや、それは才能と言うよりも、技術・職人芸に近い。時々、ふと不安になるのは、僕にはいい言葉が降っているのだろうか、ということ。文章を書いていると、そういうことが、妙に気になる。
注:冒頭部分のメールの送信者の方からは、事前に本稿の掲載許可をいただいています。
某月某日
ここ最近、僕は仕事でずっとWebサーバをいじっていた。明けても暮れても、Webサーバを設定し、コンテンツをアップし、セキュリティーを調整し、検索エンジンをチューニングした。そして、ついに力つき、風邪の症状が頂点に達し、熱を出し、寝込んだ。悪夢は、そこから始まる。
僕は、Webサーバになった。
言っておくが、Webサーバになるというのは、皆さんが想像するよりもずっと辛いことである。クライアントであるWebブラウザは、引っ切り無しにファイルを要求してくる。接続が途中で切れたら、やり直さなければならないし、扱うファイルの種類も多い。見かけの割に容量のでかい、アニメーションGIFファイルは、Webサーバにとっては大の苦手ファイルだ。時には、ディレクトリ内を散々探して、ああ、ファイルが見つからない、と悩んで 404 File not found. エラーを表示することもある。いつまで、こんな過酷な仕事をしなければならないのだろう、、。なんで俺はWebサーバなんだろう。くそー。(ちなみに、Microsoft Internet Information Server 5.0だったと思われる)
目が醒めて、布団の中で薄暗い天井を見つめている自分に気がついた。まだ、熱で頭がボーッとしている。その時、僕がまっさきに思ったこと。
「良かった、俺はWebサーバじゃなかった。」仕事は程々、が肝心。
あと、Web作成者の皆さん、ページは軽くつくりましょう。Webサーバが可哀想です。
某月某日
おっさんというのは、実によくコーヒーを飲む。社会人ならコーヒーだろって感じだ。仕事で一息入れるときは、絶対コーヒー。客先に行っても、出てくる飲み物はたいていコーヒー。自分の会社にお客を呼んでも、うちのセクレタリが出すのは、コーヒー。サラリーマンが群れる喫茶店のランチに付いてくるのもコーヒー、会社のベンディングマシンで一番種類が充実しているのもコーヒー。今日は気分を変えて、、、じゃあ、アイスコーヒー。
コーヒー、コーヒー、コーヒー、、。
でも、僕はコーヒーがキライなのだ。
飲めないわけではない。例えば、イタリア料理をちゃんと食べたら、ちゃんとエスプレッソを注文する。おやつに甘いチョコレートケーキがあったら、一緒に飲むのはコーヒーがいいと思う。コーヒーを、ある種の状況の演出として、飲むことは好きだ。しかし、わざわざ、好んで飲むものではない。まして、あー、なんかコーヒーが飲みたい、なんて気分になったことは無い。何が美味いのだ?あれは。
お茶は好きだ。緑茶でも、紅茶でも、プーアル茶でも、なんでも飲む。韓国に行った時は、朝鮮人参茶を好んで飲んでいた。最近、韓国から現地のマネージャーが来たときに、お土産に懐かしい朝鮮人参茶を持って来た。部では飲む人が誰もいないので、ほとんど僕一人で、1箱飲んでしまった。こういう時は、お茶好きが有利なわけだが(朝鮮人参茶というのは、高いらしい。そういえば、なんか木箱に入ってたし、、)、一般的に言えば肩身が狭い。日本のビジネスパーソンはコーヒーがお好きだ。日本社会においては、コーヒーが圧倒的優位を保っているのだ。
しかし、ホントか?
会社の近所に、なかなか美味しいイタリア料理の店があって、そこのランチでは食後の飲み物を選ぶことができる。この前、7人で行ったときは、3人コーヒーで4人が紅茶だった。おや?
よくよく聞いてみると「コーヒーは最近胃にしみるから」「コーヒー、キライなんです。マジで寝れなくなるし」「今日はお茶」と、まちまちなご意見ではあったが、コーヒー嫌いは確かにいた。しかも、かなりの確率で。この例に限らず、コーヒーはそんなに好きじゃないって人は、実は結構いるみたいなのだ。
しかし、世間の「とりあえずコーヒー」的な風潮によって、コーヒー好きじゃない派の嗜好は、日々虐げられている。
確かに、とりあえずコーヒー、にしておけば面倒はない。毎日、飯や休憩の時に、こまめに飲むようにすれば、墨みたいな味にも慣れるだろう。そして、いつの日にか、コーヒーの虜になる日が来るのかもしれない。そして、気がつけば、タバコにコーヒーに日刊ゲンダイ、なんていうオヤジの金字塔みたいな人になっているのだ。
それって、イヤだ。
某月某日
こんにちは、「孤高のサイト」羊ページです。
別に、孤高でなくていいが。
さて、あまりにも孤高だとつまらないので、羊ページも律儀に幾つかのリンクサイトや、サーチエンジンに登録している。そうすると、都合の良いことばかりではなく、面倒な事態も発生してくる。例えば、サイト評価サイトなんていう社交的なんだか、内向的なんだかよく分からないサイトに、勝手に評価される。
表向きは、「知ったことか」という態度を堅持するわけだが、そこはそれ、やはり気になる。誉められれば嬉しいし、まして、「自分が出したい味」みたいなものを的確に評価してくれている紹介文は、凄く嬉しい。「静かな共感が湧く」とか書かれると、よく分かってくれました、などと思う。
人は誉められたいし、認められたい。誰も、率直な批判なんてされたくない。だから、もしサイトを評価をするなら、酷くけなさない、少しでもいいから何か誉める、ぐらいのことは最低守って欲しい。けなすぐらいなら、書かなければいい。よく、公開するからには批判も甘んじて受けるべきだ、なんて書く人がいるが、そういうことを書くヤツから先にメタメタにされればいい。
で、この羊ページも、気がつくと結構いろんな所で評価されているようだ。おおむね、なにかしら良く評価していただいているようで、密かに嬉しく思っていた。しかし、1つだけ、とことんむかついたサイトがある。そう、羊ページ管理者は、近年まれに見る、憤りを感じている。それは一部では有名なサイト評価サイト、ホソキンズルゥムだ。(管理者の細田氏は、リンクの際は一報してほしいと書いているが、氏は羊ページには無連絡でリンクしたので、僕も無連絡でリンクする)
かのホソキンズルゥムによれば
> 羊ページ おすすめ
> 全体に枯れた雰囲気のある若者ページです。しかし趣味がスキーで、
> 好きな作家は村上春樹、というのは…あー、渋茶がうまい、って世界ですね。
> でも日記は雑文的にまとめていて、読ませる技術はあります。書いてあること自体は、そんなに変ではない。コメント書いた人、文章下手だね、という印象は持つにしろ、何か悪口を書かれているわけではない。でも、「しかし趣味が」とか「技術は」とか、言葉の端々に出る、人の神経を逆なでする鬱陶(うっとう)しさはどこから来るのだろう。なんでそういうことを書いてしまうのだろう。答えは明白、それは「ちゃんと読んでないから」だ。
そう、読んでない。恐ろしくいい加減にしか読んでない。にもかかわらず、さも読んだ風な顔で書かれた評価。一生懸命サイトをつくっている人に対して、凄く失礼だ。そして、ホソキンの批評を読んだ管理者のいくらかは、そのことに気がついて、憤慨するのだ。ちゃんと読まなければ、つくり手の気持ちを無視して、無神経なコメントをつけるのは容易だ。この「読んでいない」というのは、量を読んでいない、ということでは、もちろんない。作者が、そのページに、その文章に、なにを込めたかったのか、そういう部分に対する理解が全く無い、という意味である
羊ページは、ホソキンで「おすすめ」に推薦されている。それでも、その評価がいい加減であることに変わりはない。何時間も、時には何日も試行錯誤してアップするコンテンツに対して、「技術がある」と書くのではなく、「技術はある」と書くことが、どれだけ作者の気持ちを踏みにじるか、、。評価対象のサイトを全部・必ず・読め、と言っているのではない。ちゃんと読まないなら、読まないなりの書き方が別にあるはずだ。
羊ページでは、原則としてサイト評価サイトのコメントに対しては、リアクションしないことにしている。ネットの世界では、軽はずみにそういうことをすると、直ぐに不毛なフレーム合戦になってしまうためだ。結局、論争は何も生まない。しかし、ホソキンズルゥムの失礼なサイト評価と、それに憤る他の善良なサイト作成者の声が、僕を立ち上がらせたのである、、。って、べつに戦わないけど。
まあ、ようは腹が立ったので、ささやかな復讐をすることにした。ホソキンズルゥム管理者の細田氏によれば、ホソキンの評価を受けた人は、自分のサイトでホソキンズルゥムをメタメタに言っても構わないらしいので、そうさせていただく。
羊ページサイト評価コーナー:
ホソキンズルゥム おすすめ(ウソ)
他のリンクサイトのリンクをパクってきて、勝手に評価しています。画面の設計が、未知の文化体系に基づいて行われているらしく、どこになんのコンテンツがあるのか私には分かりません。メインコンテンツである無断リンク集にはコメントがついていますが、日本語が独特すぎるので、読解は困難。また、その内容は、辛口と悪口を履き違えており、不快です。
某月某日
多残業によって、プチ成金となった友達の操るポルシェで家まで送ってもらった。頑張れば、人間20代にしてポルシェが買えるのである。
この友人の明快な金の使い方には好感が持てる。多残業による所得のようなあぶく銭は、あぶくなモノを買うことに使う。シンプルでいい考えかただ。
ポルシェに限らず、彼の発想と行動は、とてもシンプルで、それがこの複雑な日常のなかにあっては楽しく感じられる。イカ(烏賊)が安かったといっては箱ごと買って塩辛を作り、でかいテレビが見たいと思えば一戸建てでもないのにプロジェクターを買って天井に映し、残業であぶく銭が出来たといえば、ポルシェを買う。ロジックは主語と述語で完結している。こういう友達が、あなたの近くにいたら、素晴らしいと思いませんか?
しかし、ふと思うのは、僕は友達だからそれでいいとして、彼の嫁さんになるような人はどう思うんだろうか。会社帰りにイカを1箱買ってくる旦那、、。あ、塩辛好きならいいのか。
某月某日
季節や自然や動物の話題が、「今日の一言」に出始めると、それは作者が弱っている証拠だ。そういう、意見があるらしい。ホントかどうか知らないが、とにかく今日は動物の話だ。
一つの事実として、僕は動物に強い。別に誇ることではないが。
それは、動物が大好き、ということではない。特に好きではない。僕の家の近所には、ペットとして「カモ」を飼っているとんでもない家があって、そこのカモの妙な鳴き声には日ごろから辟易している。あるいは、道をウロウロしている身元不明の犬猫と、ベタベタ唾液混じりのスキンシップを図るような趣味も、僕には無い。特に、動物が好きなわけではないのだ。
しかし、たいていの動物は、僕がそいつを好きであるか否かに関わらず、友好的、もしくは服従的、もしくは愛好的である。僕は、誰もお手をさせられない犬にお手をさせたりできるし、普通は難しい初対面の猫を手なずけることもできる。動物が特に好きなわけじゃないのだが。
ある時、神社の境内で、池の辺に座り、ぼんやりと水面を見ていた。秋の気配が満ち、寒々しい景色。その日、弱りに弱りきっていた僕は、何をするでもなく、枯れた蓮の茂みを眺めていた。すると、そこらへんをウロウロしていた鳩どもが、僕の足のつま先に乗っかり始めた。1羽、2羽。そして、僕にはおかまいなしに、つま先の上で喧嘩(もしくは、じゃれあい、区別不能)を始めた。
僕は枯れ木か何かか?
犬猫に強い、というのであれば、ある種の接し方やテクニックの要素があるかとは思うが、野生の鳥類となると、先天的資質なくしては、なかなか難しいところだ。
動物は我々の心を見透かす、と思う。彼らの頭が良いのかどうかは知らないが、少なくとも「気配」のようなものには、とても敏感だ。表面上、いくら可愛がる素振りを見せても、その奥に「よこしま」な気配があれば、たちどころに見破る。特に、「俺は人間様だぞ」という気配を、彼らは嫌う。まして、「動物と仲のいい俺」みたいなもの無理強いするのは、更に良くない。
僕は、動物は別に好きでもなんでもないので、単に「ああ、いるなー」と思って彼らに接する。逆に、そういう距離の置き方が、彼らに対しては重要なようだ。
なんだ、人間同士と同じじゃない。
某月某日
磨り減る、ということの意味が分かるようになることが、年齢を重ねることだろうか。
違うか。
駆り立てられる憔悴感が薄まってゆくことが、年齢を重ねることだろうか。
違うか。
半分、というのは、ある種の目印として最初に思い浮かぶもの。道程の半分。喜びの半分。人生の半分。不思議なことだけれど、人は、いつ自分が人生の半分に達したのか、知らずに生きていく。半分?
年齢を重ねて、人生の半分に立ったとき、僕はそのことに気がつかないだろう。ずっと後から知るだろう。年齢を重ねることの意味も、その頃には分かっているだろうか。
違うか。
僕にどれだけの人生が残っているのか、それは分からないのだからね。
某月某日
この調子だと、絶対倒れる。
といっても、別に脳卒中とかそういうのではなくて、疲労と風邪での話しだ。先週ぐらいから、朝11時から、夜11時過ぎまで、とても勤勉に労働をしていた。おかげで、プロジェクトの自分の担当部分に関しては、とりあえずオンスケジュールでできあがった。が、それでもう限界。体温はどんどん上がり、昨日の午後2時過ぎにはついに思考能力が消失したので、即、帰ることにした。
「いってらっしゃい」
エレベーターですれ違った、同僚の女性は、僕が客先に行くものだと勘違いしていた。なんせ、まだ2時半だし。
今日は、本来であれば、幕張まで行かなければならないので、午前6時に起きる。しかし、動けず。8時まで寝てみたが、やはり無理。しかし、一応起きて朝食を食べ、外に出てはみるものの、世界が回っていたので、ここに至って「行けない」と判断した。
しかし、ふと考えてみると、そこまでして仕事に行こうとしている自分に苦笑する。休んだからといって、別に誰かに怒られるわけではない。冒頭のプロジェクトだって、マネジメントは僕がやっているのだから、僕が予定を書き換えれば済む話しなのだ。それでも、自分の責任を考えてしまうと、どうにも弱い。なんか、典型的に過労死しそうな思考パターンだ。
自分はそういう愚かなことはしたくないし、まさかしないだろう、、。とばかりも、言えない気がしてきた。よくない。
また熱出てきた、、。
某月某日
例えば神戸旅行の日記と、韓国出張の日記は、(「今日の一言」8月分)かなり頑張って、現地で書いた。しかし、結局は面白くないし、自分で読み返す気にもなれない。大切な部分が、何一つ文章に入っていかない。輪郭をなぞることしかできない。それは、書いているときから分かっていた。大切なことを書き留めようとしているのに、ポロポロとこぼしている。それが分かってしまう。かように、人が、「今」を見定める能力というのは、とても低い。
何がその時大切だったのかは、後になってから分かる。僕たちは皆、意外なほど賢くない。だから、余計な記憶がすっかり抜け落ちてしまってから、ようやく後に残った大切ものに気がつく。分かるのは、既に消化された、今となっては取り返しのつかない部分、過去の事。
自分でちゃんと意味が分かったり、理解できたりするときには、たいていのことがあまりにも昔の出来事になってしまっている。こう書くと、僕はさぞかし後悔に満ちた人生を送るタイプに思われるかもしれない。しかし、僕は後悔というのはあまりしない。その時々の事に関して、後から評価するのはフェアじゃない、そう思うからだ。平たく言えば、その時、その人は、そういう風にしか分からなかったんだよね、という風に、自分に対しても他人に対しても考える。そして、あのときこうしていれば、という風には考えないようにしている。
しかし最近、そういう考え方は良くないのかも、と思い始めた。それは、自分で可能性を刈り取っていくような、そんな行為なのかもしれないからだ。以前は、そういう風に考えられることが、「大人なこと」だと思ってきたのだけれど、単に可能性に賭けることに疲れた人間の、言い訳なのかもしれない。近頃は、そう思うのである。
某月某日
自分が何を信じて生きているか、言い換えるならば、何を頼りに生きているのか、を考えてみる。
自分の才能を信じて生きているのではないかと、思う。
他にも、答えはいろいろあるだろう。友達、って言う人もいるだろう。僕には、本当の意味で、大切な友人が何人かいる。しかし、僕は彼らに頼って生きるような真似はしたくない。自分を愛してくれる人のため、そして自分が愛する人のため、と言う人もいるだろう。残念だけど、今の僕にはそう言い切れる人もいないし、将来、それが自分にとっての答えになり得るのかどうかも分からない。自分がかわいいから、あるいは、「生き続けない」勇気が無いから、と言う人もいるだろう。死にたくないことを頼りに、生きるというのは、間違っていないと思う。でも、今の僕は、その答えには納得できない。
社会に出てしばらく経つけれど、あらゆる領域に於いて「才能」を信じて生きている人と、そうでない人、というのが居るような気がする。そして、自分が明らかに前者に属していると感じる。
自分が昔追っていた夢について、人の話を聞くことがある。夢は、才能を喰う。夢を持ち続けるのであれば、溢れる才能を、夢に与え続けなければならない。与えるべきものが、全く尽きてしまった時、あるいは、与え続けることに恐怖を抱いたとき、それは「夢」から、「追っていた夢」に変わる。
あるいは、自分の夢が何にあるのか分からない、そういう人の話を聞いていると、言いようのない悲しさを覚える。見つからない夢、折り合わない才能。
僕って才能があるでしょ、凄いでしょ、とかそういうことが言いたいのでは全くないし、僕が、妙な選民意識を持っているわけでもない。「才能」なんていうものは、ものすごく不安定で、育てにくく、失われやすい。そんな才能とのつき合いを、諦めてしまったり、あるいはその存在にさえ気がつかない人は多い。しかし、それでも、その「才能」を信じ、「才能」とのつき合いを諦めない人たちが居る。そういう話しだ。
でも、そういう人の数は、そんなに多くないように思う。だって、きっと辛いから。しかも、そんな風に生きている人の多くには、実は本当の才能なんて無いだろう。もちろん、僕にだって。
それでも、僕はそういう風に生きる。考えてみて、そうだと「分かった」。