某月某日
見つからないものを、探しはしない。
だから、きっと見つかるはず。
そういう風に言われた。自分と自分の未来を信じる勇気。
某月某日
[click to snapshots] 人が何によって世界を把握するかというと、五感なのであって、その中で取分け何に重きを置いているか、何に傾いているかというのは人それぞれだ。
僕はそれを嗅覚に頼っている。そのことには最近気がついた。羊ページを検索してみると、僕はこの 10年で 29回の「匂い」という言葉を使い、22回の「香り」という言葉を使っている。
匂いが表現できるメディアは、ほぼ文章だけ、だと思う。だから、僕が表現の手段として、画を描くわけでもなく、歌を歌うわけでもなく、文字を選んだのは、そいういうこともあるのかもしれない。
Photo: "rose" 2005. Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.
某月某日
[click to snapshots] 朝起きて、なんとなく日付を見ていたが、さっき突然気がついた。今日は羊ページの誕生日で、しかも、10回目の誕生日。10周年。
コンピュータの上、というとても不安定な場所で、10年続けることが出来たのは意外。あるいは、こういう場所だから、10年続けることができたのかもしれない。自分の興味のあることを自由に追求できる、その風穴みたいなものが、とても大事なんだと感じる。
このページを読みに来てくれた全ての人に、10年間ありがとうございました。
これからも羊ページをよろしくお願いします。
Photo: "ハート" 2005. Sony Cyber-shot U40, 5mm(33mm)/F2.8
某月某日
[click to full size photograph] 熱海の街を歩いて、干物屋をひやかすのは面白い。
店の作りはどれもよく似ていて、軒先には人寄せを兼ねた干し台があり、奥にこぢんまりとした入れ込みのような休憩所がつくってある。練炭を入れた七輪で、干物を炙って食べる趣向だ。
干物の他にも、蛸の塩辛や、鯑の山葵漬、若布のふりかけなんかが並んでいるが、よくよく見ると、これって箱根でも売ってたよな、というのもあったりする。もっとも、そういうのをあえて買う愉しみ、みたいなものは確かにある。
それにしても、干物というのは、色とりどり魚が盛られていて、しかも、もうあとは炙って食べるばかりという訳で、つい、あれもこれも欲しくなる。特にこの棚。梭子魚のピンと張った尻尾と、飴色の身は、とても美しくて、日本の食べ物の綺麗さに息を飲む。温泉町の土産物屋で、こんなものが買えるのだ。
結局僕は、ここでは何も買わないで出た。かまぼこか何かを、買っていたのも居たな。
Photo: "梭子魚" 2006. Atami, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Planar T* 1.4/85(MM), Kodak EBX.
某月某日
[click to snapshots] 真夜中の水槽には、大きなスッポンが泳いでいた。
毎夜怒鳴り合う酔っぱらいをガラス越しに眺めて、彼には昼もなく夜もない。
綺麗に飾り付けられた見栄えの良い水槽が、ただの檻であり棺桶であったとして、それを眺めている僕と彼の間に、どれほどの違いがあるだろうか。
食用、ではないんだろうな、ここはバーだし。
Photo: "水槽" 2005. Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.
某月某日
[click to snapshots] ある本を読んでいて、人には二つの誕生日があることを知った。
自分が生まれた日が最初の誕生日。自分のことが理解できた日が二番目の誕生日。それをセカンドバースデーと言うらしい。
誰でも最初の誕生日はもっているけれど、二番目の誕生日はどうだろう。僕はまだ、二番目までいっていないような気がしていて、でもそれはちょっと近いような予感もしている。
Photo: "窓" 2005. Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.
某月某日
[click to full size photograph] テレビでよくやってる、不振の温泉宿を建て直せ!みたいなプロジェクトで立て直された温泉宿にいって来た。別に狙ったのではなくて、たまたま。
ベースになっている建物は古くて、階段なんか、「俺は酔っ払ってるのか?」と思う傾き加減だが、目に見える部分は一応リフォームされていて、そんなに悪くない。畳の上にダイニングテーブルを置くとか、ベッドをしつらえるとか、テレビ写りはともかくとして、本当にそんなの居心地がいいの?と思ったのだが、これもそんなに悪くない。
温泉と食事にフォーカスする、という方針になっているらしく、この二つはちゃんとしている。大浴場のほかに、いくつか貸切の露天風呂があって、予約も何もなく、空いているところがあれば内側から鍵をかけて貸切にできてしまう。
深夜、ほかの客は早寝と見えて、まるで人影が無い。波の音を聴きながら、独り占めの湯船。お湯はかなり熱くて(源泉が 90℃以上なのだ)、100数えるのが限界。
ピリピリしながら浸かっていると、洗い場も含めて吹きさらしという豪快なつくりなので、夜の気配をとても近くに感じる。こんなに静かな温泉は、四万十川を旅して以来か。
建物も料理も、高い料金をとって泊まらせるところには、それはかなわないのだが、スタッフが皆親切でやる気があって、マイナスをカバーしようという気位がある。僕はどちらかというと、この手の再生プランみたいなものに対して、疑わしく見てしまうのだが、ここは頑張っていて良いと思った。
もちろん、施設より温泉より、なによりも、気の合う人たちと一緒に来ているから、楽しい、というのが一番大切なことなのだけれど。
Photo: "湯船" Atagawa, 2006. Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.
某月某日
加湿器を買った。加湿器を買うのは流行っているようで、ヨドバシのサイトではお一人様 1点限りだった。何台も加湿器を(それも同じモデルを)欲しい人が居るのだろうか。多分、そういう人は居るんだろう、僕は 14インチのまったく同じ液晶テレビを 2台買ったことがある。
なんにしても、僕の部屋には、これで、加湿器と除湿機と空気清浄機が揃ったことになる。バカみたいな話だ。3台を並べてみると、僕の体は、日本の気候というものに全然順応していないんじゃないかとさえ思う。っていうか、この際一つにまとめてくれよ。
でも、この加湿器は結構気に入っている。
気化式だから、蒸気を出すわけでもなく、熱くなるわけでもない。小さなファンの音をさせているが、動いているのか動いていないのかあまり分からない。本体の片方に、アメリカのドラマに出てくるミネラルウォーターのベンディングマシンのような、大きくて透明な水のタンクがついていて、時折、ボコッという音をさせて水が本体に吸い込まれていく。
大きな気泡が立ち上って水面を揺らし、水位が少しだけ下がる。仕事してるよー、とでも言うように、ボコッと音がする。休みの日の午後に、暖房を付けっぱなしで寝てしまっても、起きてのどが痛くない。確かに、仕事をしているようだ。で、僕が何をするでもなく水面を見つめていると、また、ボコッと気泡を立たせる。実は湿気なんて出なくても、泡が出ているだけで、だいぶ気分が良くなるんじゃないかとさえ、思うのだ。
注:加湿器と除湿機と空気清浄機。器、機、機。僕が漢字を間違えたわけではありません。加湿器って、機械じゃないってことかな?
某月某日
もう一度、『風の歌を聴け』について書く。
僕がこの 10年で一番読み返した本は、間違いなく、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』だった。何か面白い筋のある小説ではない。でも、何故か読み続けてきた。色々な所に持っていったし、何人かの人に貸したこともあるが、今もちゃんと手元にある。薄っぺらい文庫の表紙は既にすり切れて、角は丸くなり、紙は茶色く日に焼けた。
何故、自分がこの本を読み続けてきたのか、意味を考えたことは無かった。そもそも、この本が何を言おうとしているのか、この本から自分が何を受け取っているのか、それを考えようとしたことさえ無かった。
もう一つの 10年。僕はこの羊ページという場所で、ずっと何かを書いてきた。そこに流れているテーマは、決してポジティブなものばかりではなくて、むしろ、辛いことばかり書いていた時期もある。書くことが無くて、食べもののことだけ書いていたこともある。でも、書いているのは楽しかった。
Web がきっかけで、写真を撮るようにもなった。記念に何かを残したい、わけではない。その場所や、その人の姿を借りて、自分の思いもよらなかったものを生み出すことができるのが、嬉しい。写真は、ちょっと苦しい思いをしながら書いている自分にとって、自信を与え、助けてくれる存在になった。
そして、歩いてきた 10年。学生から、社会人になって、いろんな人に出会いながら生きてきた。決して平坦な子供から少年に至る時代を送ったわけではない僕にとって、その 10年は、自分の周りの世界と、自分の中につくられた世界のギャップをどうにか埋めようと、ぐるぐる迷い続けた長い時間だった。
でも、何かが変わりつつあるような、そんな気がし始めた去年。
今、それは確信になりつつあって、この 10年の答えと、そしてその先を生きていくためのヒントに、気がつきつつあるような、今はそんな思いがしている。僕がどんな言葉を探していたのか、僕が何故書き続けてきたのか、僕がぐるぐる歩いてきた意味は何だったのか。
『風の歌を聴け』に話を戻す。
今朝、ふと部屋の本棚を見て、1995年の「國文學」という雑誌を見つけた。特集は「村上春樹―予知する文学」。何年かぶりに中を見て、その中の、「夏の十九日間―『風の歌を聴け』の読解」に目がとまる。
結論を先に言えば『風の歌を聴け』は、否定から肯定への物語である。
―加藤典洋
答えは、すり切れた『風の歌を聴け』の文庫本と一緒に、10年間、同じ本棚で眠り続けていたのだ。
僕がこの小説から無意識に受け取り続けていた、もう一つのメッセージの正体が、そこにははっきりと書かれていた。そして、その原稿の執筆者の名前。それは、僕が 10年前に大学で文章について一番大切なことを教わった、尊敬する先生の名前だった。
注:國文學、「夏の十九日間―『風の歌を聴け』の読解」、加藤典洋、1995年3月号。