某月某日
そろそろ十五夜かと思ったら、そんなものはとっくに終ってしまったという。僕は昨日、タクシーの運転手と、そろそろ十五夜ですね、なんて話したばかりだというのに。
電車の中の蒸し暑い空気を、ガラガラ言う冷房がさかんに冷やしていた。僕の目の前では、少し太めの女性が、一緒に帰る後輩のバイト君を口説いている。あたりさわりの無さそうな会話のはしばしに、なんとも言えない誘いのフレーズ。もっとも、バイト君には、あんまりその気はなさそうだ。
外を見ようと、頭を巡らせると、隣に座ったおっさんと目があった。せせこましい駅の風景が、汚れた窓越しに見えた。ドアが閉まり、どこかに向かって電車が動き出した。車内から月は見えない。
君の月はどっちに出ている?
某月某日
ある評論家が言っていた。「本の中には、必ず理解できないセンテンスがある。理解できないものを恐れてはならない。それが、自分を成長させてくれるのだ」
文章を書くということは、本来書けないこと、分かっていないことに近づくために書くのだ。そうやって、試行錯誤を繰り返して書くと、最初に書いた文章が、最後には一段落も残らないことだってある。途中で行き場がなくなって、何ヶ月もそのままになることだってある。しかし、文章が出来上がったとき、何か新しいことを手にする。
文章の出来・不出来は、自分では直ぐに分からない。例えば、何年も前の自分の文章を読んでみて、ああ、この時は苦しかったけれど、今見るといい出来だな、と思う事が、たまにはある。
でも、ここ数回のはいまいち、、だねぇ。
某月某日
深夜。ディスプレイを睨み付けながら、まったく進まないプレゼンテーションのスライド作り。カーソルが、画面の上を、行ったり来たりしている。頭がオーバーヒートした感じというのは、こんな時のこと。2リットル入りの、ミネラルウォーターのボトルから、ドボドボついで、飲んでみる。胃は息を吹き返すけれど、頭まではすっきりしない。ううう。明日使うんだよな、この資料。つーか、あと20分で明日だが、、。ううう。
そんな時、僕の中で何故か鳴り始めるテーマ。
ニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーニャ
ニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーーニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーニャ
ニャニャニャニャニャーニャニャ、ニャーニャニャニャーー
(一昔前、ダウンタウンの松本が歌ってたやつ)近頃、頭の中から、この曲が消えない。しかも、振り付き。
某月某日
全国500人の、「都庁の周りを掃除しているキレイなお姉さんファン」の皆さんこんにちは。羊ページです。
都庁の周辺の清掃作業は、当然ながら、専門の業者が外注で行っている。彼らは、蝉がジージーうなる真夏から、ビル風が容赦なく吹き付ける真冬まで、毎日のように都庁の通路や、中央公園につながる陸橋など、あらゆる部分を掃除している。メンバーは、約6名。ほとんどが、30 - 40代の男性だ。しかし、そのライトブルーの作業着をまとった掃除集団の中に、一人だけ、「お姉さん」がいる。しかも、「キレイなお姉さん」が。
実際、「都庁の周りを掃除しているキレイなお姉さん」というのは、新宿都庁近辺に働く男子であれば、おそらくは誰しもがチェック済なのではないかと思う。周りの人間に聞いてみても、「ああ、あの人でしょ」と答えが返ってくる。午前11時のフレックスタイム限界時間にさえ、ダッシュしないと間に合わないような生活をしている人びとが、皆、彼女の事を知っているのだ。よく見てるというか、それぐらい目立つのだ。
さて、ここでポイントなのは、多分、「都庁の周りを掃除している清掃員」という点だと思う。最近は増えてきたといっても、若い女性の清掃員というのは、割と珍しい。というか、率直に言って、なんとなくミスマッチな感じがする。そして、そういうイメージとのギャップというのは、人の興味を惹くものだ。ジャガーショールームの受け付け嬢。それよりは、タコ焼き屋台の女亭主とか、スキー場の宿の看板娘とか、なんかそういう方が、いい感じがする。
ところで、僕はその「お姉さん」と毎日会うのかというと、実はそんなこともない。業者が清掃している場所は日によって異なるし、僕の出勤時間や出勤コースは極めて気まぐれだ。だから、月に数回、出くわせばよい方だと思う。それだけに、彼女に会うと、割と得した気分になる。ビル風は強く冷たく、水は手を切るような冷たさ。そんな冬の早朝に、彼女が一生懸命手すりを磨いている光景は、なんとなく感動的ですらある。(横で同じ作業をしているオヤジは、なんとも思わないんだけどさ)
確か、1ヶ月ぐらい前のことだったと思う。その日は、丁度中央公園陸橋の洗浄日。橋の上では、例の業者が、機械を使って床を磨いている。と、向こう側から、作業を中断して、彼女が歩いてくるではないか。実は、僕はちゃんと彼女の顔を見たことがなかった。彼女は、いつも帽子を目深に被っているし、敷石なんかを清掃しているから、ずっと俯きっぱなしなのだ。
すれ違ったとき、僕はどきっとした。顔を上げた彼女を、僕は初めてはっきりと見た。そして、その瞳には、なんと一杯の涙が浮かんでいたのだ。当然、僕が声をかける筋合いではなく、僕たちは数秒ですれ違った。この瞬間、彼女と僕の距離は近くても、互いに何の繋がりもないのだ。僕は、床を磨いている、清掃業者の他のメンバーをよけつつ、橋を渡り終えた。あの涙は、、。
まあ、洗剤が目に入ったんだろうけどね。
注:ジャガーショールーム及び、ジャガーショールーム勤務の方に対して、なんら悪意はありません。第一、行ったことないので、よく分かりません。
某月某日
アダルト・チルドレン(AC)という単語には、いちおう定義があって、アルコール依存症の患者を抱えた家庭環境で育った人を指す。(最近は、これだけに留まらず、機能不全の問題を抱える家庭に育った人、全般を指すようになった)ACの数は社会環境の複雑化に伴って、年々増加している。一例を挙げるならば、現職のアメリカ大統領ビル・クリントンも、自らがACであることを公表している。
僕自身も、この定義に従うと、ACである。ACは、現代の社会では、あまり珍しいものではないが、誤解を受けることも少なくない。しかも、その苦しさを他人に理解してもらうのは、極めて難しい。そもそも、ACという概念自体、メジャーになったのはここ数年のことで、多くのAC達は、自分自身がACであるという事実にさえ、未だ気づいていない。
ここに一冊の本がある。ずいぶん前に買った、「日本一醜い親への手紙」。ここに納められているのは、憎悪、あるいは冷たい怒りに満ちた、100通の手紙だ。虐待や放置など、あらゆる手段で、心を切り裂かれた人たちの手紙である。手紙を書いた人びとは、年齢も、性別も、職業も様々だが、その大半はおそらく(広義の)ACと言われる境遇にある。
ACとして生きる。それは、容易いことではない。そのあまりにも厳しい道を歩くAC達の、一瞬の叫びが、この本には書きつけられている。この本を「くだらない」と片づけることができるならば、あなたはきっと幸せな人だ。僕はこの本を、一度として読み通した事がない。淡々とした、たった数行の表現の中に、彼らの目に映った地獄が、ありありと見える。「生ぬるい」と言われる時代の、静かな闘いがここにはある。それは、時として、一人の味方さえ居ない、孤独で、しかも希望の薄い闘いである。
ACには、余分に背負った荷物がある。それを下ろすには、彼ら自身の力によるしかない。しかし、それには時間がいるし、回り道も必要かも知れない。しかも中には、(かなりの割合で)負けてしまうヤツだっている。だからといって、ACに対する同情や、共感は、無駄だ。
ただ、理解を。ここに並んだ100通の手紙の作者達も、同じ事が言いたいに違いない。
「日本一醜い親への手紙」、メディアワークス、主婦の友社 1997。ISBN4-07-307247-1