某月某日
部屋が汚くなりすぎて、発狂しそうになったので、片づけることにした。はっきり言って、僕は整理整頓に長けた人間ではない。ホームページのデザインがすっきりしているからといって、作者がこざっぱりとした生活を送っているとは限らない。その可能性に、読者は思いを巡らせるべきだ。
もともと体調が悪くて、会社を休んだのだが、荒廃した部屋をみていると、さらに気分が悪くなった。気分の悪いときに、混沌とした部屋で寝ている事ほど、苦痛なものは無い。とにかくイライラする。
「片づけるか」部屋中の窓を開ける。新品のマスクをする。お菓子の類は、部屋から避難させる。そして、どんどん捨てる。いるような、いらないような、そういうモノの集合体と闘う。部屋の惨状は、捨てるか否かの判断を保留されたものが、どんどん溜まっていった結果だ。つまり、片づけの下手な人間というのは、あらゆるものを先送りにしがちな人間なのだ。
段ボール一杯分のゴミを収集したところで、日が暮れた。部屋が広くなった。さて、気持ちよく寝られそうだ。
注:つまり、作者は毎年 5月になると、大掃除をする習性があるようです。詳細は、[こちら]
某月某日
煎餅を囓りながら、久しぶりにフランス映画を見る。
視線のエロス。
どちらかといえば、見ていて疲れる映画。フランス語、字幕を丹念に追わないと、内容が分からない。
「記憶は、情熱を留めておくことができない」その言葉だけが、心に残る。
だからこそ、耐えられることもある。そうじゃないだろうか。
注:べつにエロエロな映画ではない。邦題がめちゃくちゃなだけだ。
某月某日
職場での先輩、吉田さん(仮名)との会話
吉田 「(私)xxくんて、普通じゃないよね」
僕 「陰口ならいいですけど、面と向かって本人に言います?そういうこと」
吉田 「だって、 沼に住んでそう だよね」
僕 「、、、?」
吉田 「で、夜中に近づいた人を引きずり込むの」
僕 「、、、。」どんな人だ、それは。
沼羊、それもイヤだ。
某月某日
パラパラと雨が降っている。
何年も使ってきた、パソコンの仮名漢字変換の辞書を整理する。遙か昔に忘れてしまった友達の名前が、幾つも登録されていた。コンピュータの記憶は、消えもせず、薄れもしない。
悲しい目をしている。と言われることがある。
負け犬の目、とか、怯えた目とか、そういうものならば、なんとなく分かる。「悲しい目」って?
顔を洗って、鏡を覗き込む。それは、いつもの自分。
InterFMで、ピーター・バラカンがしゃべっている。英語で。
うまいじゃない、英語。
雨が降っている。
某月某日
羊ページ管理者は、他人の日本語の使いかたに関して、寛容であろうと思っている。僕にとって「ら」抜き言葉は全然不愉快じゃないし、例え街中で日本語のラップが流れていても、聞こえないふりをするぐらいの分別はある。でも、一つだけ許せない日本語がある。最近よく見かける、こんな感じのやつだ。
- 会社からの帰り、新しいCDが売っていたので、早速買って帰った。
- スーパーに行ったら、大安売りでアンコウ鍋セットが売っていたので、今夜は鍋にすることにした。
- 新しいi-modeの端末が15,000円で売っていたが、やっぱ今持ってるのでいいや、使わないし、と思った。
上に挙げた三つの例文を見て、違和感を感じないだろうか。この「xxが売っていた」という表現は、なんなのだ。
実は、この「が売っていた」という表現は、現在の日本語文法を揺るがすくらいの、インパクトを秘めている。従来の流行り言葉、というのは、なにかの形容詞を言い換えたり(例:「凄く」->「ちょー」)、名詞を恥ずかしく短縮したり(例:「スーパーコンピュータ」->「スパコン」)、未知の感覚を表現したり(例:「まったりとした」)、言ってみれば単なる「置換」に過ぎなかった。ところが、「が売っていた」という表現は、文法レベルで日本語に変更を加えている。
例えば、「携帯が売っていた」という文脈では、普通に考えれば「が」は能動態として使われる。つまり、「携帯電話が自分で何かを売っていた」という意味になる。しかし、これでは意味が通じない。「携帯電話が何者かの手によって売られていた」というのが、本当の意味だからだ。この場合、「が」は明らかに受動態として使われている。だから、聞いていて物凄く変なのだ。そこには、明らかな言語的センスの欠落が感じられる。
どういう経緯でこういう表現が出てきたのか、僕にはよく分からない。(どっかの方言が転化したものなのかもしれない)この表現の姉妹編として「テレビでxxの番組がやってた」などというものもあり、年齢や学歴に関係なく、様々な人がこの「xxが」表現を使っている。実際、かなり広く浸透した表現のようである。あるいは、日本語文法の活用変化が、よりおおざっぱなものに変化してゆく前兆なのかもしれない。もっと大きな目で見れば、そんな風に思えてきたりもする。
いずれにせよ、個人的にはこんな変な日本語はやめて欲しいのだが、、。
注1:もちろん、言葉は皆が使ってなんぼ、なんだけど。
注2:「〜が売っていた」という表現は、「ら」抜きを進化させた、ある種の「れらる」抜き表現ではないか、というご指摘をいただいた。つまり、「携帯が売られていた」→「携帯が売(られ)ていた」→「携帯が売っていた」なるほど。そうかもしれない。
某月某日
最近では、自虐系のサイトじゃないと読者には受けないらしい。羊ページみたいなスタンスは、あんまり受けないらしい。自虐系。下ネタ、内輪ネタ。泥酔した友達同士の会話か、あるいは深夜の長電話、そんな文章。うーん、楽しそうだな、確かに。
テレビも、ラジオも、雑誌も、Webも、メディアの世界では楽屋落ちが全盛。
ゴールデンウイーク中、久しぶりに長い時間ラジオを聞いた。どのDJも、「いやーー、世間は楽しいお休みですけど、私は仕事。なにやってんでしょうねー」なんて調子で話しをつないでいる。もしレストランで、「いやー、お客様、今日はお休みですか?私なんかもう大変なんですよー、こうやって朝から、えんえんとお客様のお相手でして、、」なんて言われたら、間違いなくむかつく。しかし、メディアにおいては、こういうノリが許される。
僕自身、自虐系のサイトはかなり好き。ブックマークにもいくつか入っている。(というか、大半はその手のサイトだという気もする)しかし、自分でそういうものを書こう、という気にはならない。そういうものを書く才能自体、僕にはないけれど、もし、そういう路線で書いていたら、とっくの昔にこのページは無くなっていただろう。
だいたい、その手のサイトは面白いけれど、長く続くことはほとんど無い。もって1年というところだろうか。でも、それは仕方のないことだと思う。自虐系、と言われるサイトの多くは、よそ行きでない自分を曝し、晴れ舞台ではない場所で、勝負している。
しかし、インターネットは所詮、実世界の上に成り立つ現実の世界。そこには、現実の人間がいて、社会がある。その現実の世界で、玄関を開けっ放しにして、住みつづけるなんてことは、やはり無理な相談なのだ。もし自虐という路線をとり続けるならば、もはや「芸人」として、客と相応の距離を測りながらやっていくしかない。そして、僕は「芸人」になるつもりは無く、従って自虐系でいくつもりも無い。だから、読者との距離は大事にしたい。
つまり、「羊ページ」はこれからも相変わらず、距離をおきまくったサイトでいきます。よろしくね。
某月某日
通販の番組を見ていると、コンセントに差し込んでネズミやゴキブリを撃退する電気製品を紹介していた。
原理は簡単で、強力な高周波を電源配線に流し、電磁波で害虫・害獣をおっぱらうというものらしい。電磁波の体への影響が問題視されている時に、それを逆手にとって「電磁波でおっぱらう」というコンセプトが素敵だ。確かに、体に悪いぐらいだから、ネズミだっていちころだ。「効きそう」という点では、砒素配合殺虫剤とか、アセトアミノフェン配合解熱剤などと同じである。
でも、ウチにはそういうものは必要ない。食糧事情の悪いウチでは、そういうものはとっくに死に絶えている。なにせ、ゴキブリを飢え死にさせたことだってあるのだ。(昔、力なくゴキブリが這い出てきたが、食糧事情が悪かったらしく、床をたたいたらひっくり返って二度と起き上がらなかった)
某月某日
行列の出来る、まずいラーメン屋がある。
昼時、(暑くもないのに)腕まくりをしたオヤジどもが行列をつくるラーメン屋。昼間からラーメンを食べる、という感覚が僕には無いから、(特に、東京ラーメンは昼間に食うものではないと思う)なんとなく敬遠していた。しかし、あまりにも常に行列ができているので、ある日、ついに暖簾をくぐった。もしかして、ウマイのかも?
店内は、平均的ラーメン屋の風情。汚すぎでもなく、キレイすぎでもない。(キレイなラーメン屋というのも、少しイヤだ)しかし、店内に貼り出されたメニューは、やたらに種類が多い。メニューが豊富なラーメン屋が、うまかったためしはない。水の出てきたコップは、末期的に汚い。店内は、オヤジどもでいっぱいで、それも、なんか仕事の一線からは外されました、みたいな雰囲気の人が多い。どう考えても、やばい感じがしたので、普通のラーメンを頼んだ。
しばらくして、腹立たしいほど、なんの美味さもないラーメンが出てきた。正確に言うと、不味い、のではない。美味くないのだ。まずい、ならば面白いからまだいい。不味いものは思い出になる。美味くないものは、なんの思い出にもならず、やるせない感じだけが残る。うどんと山菜御飯のセットにサラダを付けられたときのような、あるいは、山奥の民宿でマグロの刺身を出されたような、そんな嫌さ加減と言えばわかって頂けるだろうか。
出てくる料理は、最初味がわからないくらい熱い。親の敵のように熱い。(僕は、猫舌、猫手なので熱いものは基本的に苦手だ)舌は化学調味料でしびれ、醤油の質は限りなく低く、麺からはウンザリするほどのかんすいの臭い。それを、オヤジどもがフーフーいって食べている、フーフー。しかも、皆、満足げに麺をすすっているのだ、フーフー。一緒にそのラーメン屋に行った同僚達は、うんざりした顔で、顔を近づけるだけで息苦しくなるほどアツアツのタンメンと格闘している、フーフー。僕の味覚が問題というわけでは、ないらしい、フーフー。
僕は、その美味くない熱湯ラーメン自体に怒りは感じなかった。店主は、手を抜いて作っているわけではなく、ラーメンはこれでいいのだと、確信してつくっているようだった。むしろ、そんなラーメンを嬉々として喰っている見知らぬオヤジどもに、あきれ、恐怖した。
別に、美味いものを喰わなければいかん、などというつもりは全く無い。なんというか、美意識というか、センスというか、そういうものの完全な欠落が悲しいのだ。だって、このラーメン屋の近くには、いろいろと美味しい店がある。手ごろな値段で、オヤジ好みの和食を出す店だってある。なのに、なぜここで喰う。行列する。こういう人たちが、OLの手によって、ぞうきん汁入りのお茶とか飲まされてるんじゃないだろうか。言っておくが、このラーメン屋、値段は決して安くはないのだ。こんな人たちに、食事を作っている奥さん達は(このオヤジどもは、どうみても、自分で作りそうにはない)、さぞかし、やりがいがないに違いない。
「なんか食わしときゃいいのよ、どうせ味なんて分かりゃしないんだから」
注:作者は、「ホンモノのお茶くみ」というのを見たことがないので、想像。