今日の一言。
2000年 2月の一言 

某月某日
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今日は、猫の舘と同じテーマを書いています。とは言っても、羊ページは、物凄くのんびりしているので、該当するテーマは、猫の舘では、とっくの昔に掲載されていますが、、。で、今回の「今日の一言」は、読者からクレームがついたので、書き直してみました。愛情をこめて書いたつもりでしたが、「悪口じゃねーかよ」という不満の声があったのです。



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以前、僕の友達のプチ成金について書いた。一言で言うと、小金持ちで、衝動買いが大好きで、ポルシェに乗ってる、気のいい男だ。今日は、彼の特徴についてもう少し掘り下げて書いてみようかと思う。

プチ成金は、友達が多い。

以前の「今日の一言」で書いたが、僕が「一般的な動物」に警戒されないのと同じように、彼は、「たいていの人間」に警戒されない。(赤の他人の)食堂のおばちゃん、(赤の他人の)ビルの警備のおっさん、(赤の他人の)弁当屋の配達員、(赤の他人の)駐車場でたまたま隣に駐車した人、(赤の他人の)旅先の宿の主、、。あらゆる人と、瞬時にお友達になってしまう。英語などの外国語はあまりしゃべれないらしいが、相手が(赤の他人の)ガイジンでも「ビューッ」とか「ダーン」とか「パッパッ」とか、意味不明な擬音語と、妙なアクションを駆使して、意思を疎通させる。(赤の他人の)ガイジンだって友達だ。

プチ成金は手厚い。

友人が多いと、普通は1人1人に手厚くしているわけにはいかない。だから、個々にはどうしてもその場限りの付き合いになりがちだ。しかし、彼はそういうタイプの人間ではない。真夜中に(頼みもしないのに)「面白いジュースを見つけた」と言って何十キロも離れた家まで押しかけてきたり、「車復活計画」と称して、(頼みもしないのに)朝の4時まで他人の車を洗車したりする。(頼みもしないのに)とても手厚い。

プチ成金は恐ろしく親切だ。

スキーに行くと、(恐ろしく)親切なことに、チェーンをはめられない見知らぬ人のために、吹雪の中、チェーンを着けてやったりする。しかも、手伝うならまだしも、全部やっていた。冷酷な僕は、傍で見ていて、「さっさと見捨てろよ、ボケがぁ」と怒り狂う。帰りは帰りで、自分の車に乗った人は、(恐ろしく)遠くに住んでいる人でも、家まで送ってくれる。とにかく(恐ろしく)親切だ。

つまりは、あきれ果てるほど「いい人」である。彼は、親切の星から来た人なのだ。本人は、それら全ての行動は、「冷徹な計算」から導かれたものだと主張している。しかし、親切星の人の「冷徹な計算」とは、いかようなものか、僕にはよく分からない。「冷徹に計算」すると、赤の他人のチェーンを巻くのだろうか。



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スキーに行ったときの話しだ。(超最近なんだけどね)

僕は、その日の午後から体調崩れ気味。一緒に働いてきたチームの人たちが、とあるプロジェクトに続々と買われてしまい、僕のやるべきことがべらぼうに大きくなってしまったせいだ。そのまま帰ればよかったが、あいにく飲み会が用意されていた。

午前1時に家に帰って、仕度をしたら、もうスキーに出発。集合場所である駐車場に着いた段階で、事態は極めて悪い状態にあった。息苦しい上に、妙な寒さが、腰のあたりに上ってくる。荷物の積み下ろしを他のメンバーに任せて、車の中でウトウトする。気分が悪くて、ちゃんと眠ることができない。

ドアが開いて、袋が差し出された。プチ成金だ。彼が差し出した袋の中には、タケダの C1000、アリナミンV、ユンケルなど、あらゆる種類の滋養強壮系ドリンク、そして缶入りのポタージュスープ。そんなものが、袋一杯に入っていた。真夜中の駐車場、どっからそんなものを入手してきたのかは謎だったが、親切星の人に不可能は無い。

ブルブル震えながら、キャップをねじ切って、彼が買ってきてくれた液体を飲み込んだ。アリナミンVの味は最悪だった。結局、体調は回復するどころか、直後に全部吐く羽目になった。でも、良い意味で、忘れがたい味だった。僕のために買ってきてくれた、心のこもった、夜中のアリナミンV。それは、たぶん美味しかったのだ。

プチ成金はいい人だ。



注:チェーンの件だが、僕は偽善者なので結局は一緒に手伝わざるをえなくなる。とても寒い。



某月某日
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精神年齢を調べるWebページで、44才と診断された20代、羊です。

あまりに渋すぎるかもしれないが、ここ数ヶ月来、日本酒の美味しさに気がつき始めた。同僚と愚痴でも言いながら、ちびちび飲む日本酒。そういうのではない。純粋に美味しいから飲みに行く。

新宿某所にある、日本酒が充実した店。ここに、酒と肴だけを求めて立ち寄った。仕事が長引いて、きちんと飲むには、もう遅すぎる時間。夕食もまだ食べていない。飯と酒。こういうものを大切に考える人と行くと、面白い。何喰っても一緒でしょ、という人が悪いとは言わないが、食事を共にしたときの面白さは減ってしまう。

暖簾をくぐると、カンバンまであと40分。食事はいきなりラストオーダーだった。黒板に書いてある、日替わりのメニューから、旨かった記憶のあるものを、適当に頼んでいく。適切な料理と酒の組み合わせを選ぶことは、真剣に何かを食べようと思ったら、とても重要だ。

樽酒を2合ばかり飲みながら、出てきたものを順に片付ける。お互いに、ほとんど喋らない。黙々と、肴を頬張り、少し安めの生酒で流し込む。日本酒の匂いは、自然に料理に溶け込み、五感を刺激する。

鴨のつくね焼き(串)、鯛の兜焼き、白子ポン酢、笊蕎麦、菜の花の芥子和え、平目薄造り。この店のメニューは、最高級の旨さというよりも、旬の美味しさをリーズナブルな値段で、という感じ。季節のものが400円ぐらいから選べるので、身構えなくて良い。今の季節、菜の花の芥子和えは、どんな酒にも合う、清々しい品。昆布締めされたほろ苦い菜の花に、薄く芥子の風味。

面白かったのが、鯛の兜焼きだ。鰤のカマ焼きというのもいいが、鯛が意外と素晴らしい。脂気はほとんど無いが、綺麗な白身と、香ばしい皮がなんとも良い。半身なので、目玉は1人分しかない。プチ成金に勧めてみたが、目玉ということにどうも躊躇しているので、僕がもらった。ものがいいから、トロッとしてとても旨い。その表情を見て、彼は、非常に悔しがっていた。次回はきっと譲らないだろう。

この店で飲むもう一つの楽しみは、蕎麦。池波正太郎の本を読むと、蕎麦屋というのは酒を飲むための場所、と書かれている。蕎麦屋で海老の天麩羅を肴に一杯。そのあと、蕎麦を。なんとも粋だ。逆に、日本酒の店が、美味い蕎麦を出してくれればこんなに都合の良いことはない。そして、この店の蕎麦は、日本酒と合わせていただくことを念頭につくられた、嬉しい品だ。蕎麦は少し太めで、短い。少しとってタレにつけ、これを文字通り「飲み込む」。蕎麦がアルコールで麻痺した喉を伝う感触と、蕎麦の香り。2:8ぐらいの蕎麦の喉越しは、適度にヌルリとしていて、気分が良い。ここの蕎麦を、モグモグ噛んで食べる奴は、アホだ。

最後に、上物の大吟醸を1合だけ頼む。このクラスの酒になると、酒の色は、薄く黄味がかっている。秋の稲穂の色だ。酒というよりも、果物の香りが溶けた清水。これを飲むときは、白子を少し口に含む。

食べ終わったら、勘定をしてさっと出る。長居はしない。3合くらい飲むと、丁度ほろ酔いの気分になる。日本酒だけの酔い具合というのが、また、いい。



某月某日
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映画の世界では、過去の作品をモチーフにして、新たな作品をつくる、というケースがある。「七人の侍」を西部劇に置き換えた「荒野の七人」はあまりにも有名だ。モチーフにする、というのは好意的過ぎるかもしれない。骨組みをパクッて新しくつくる、ということだ。

ある種の「型」が決まってしまえば、そのバリエーションを増やすことは比較的簡単だ。「7人のアウトローが、村人を守る」という「型」を利用したのが、前述の「荒野の七人」である。

このやり方は、簡単に応用可能だ。例えば、「戦国自衛隊」。これは、自衛隊が戦国自体にタイムスリップする、というめちゃくちゃな設定の映画だが、「公官庁の組織が、過去にタイムスリップする」という「型」をそのまま利用して、ほぼ無限にバリエーションを考えることができる。

さあ、どんどん考えてみよう。


「元禄警察予備隊」
 似たようなテーマを、少しずつずらして取り入れている手堅い作品。しかし、警察予備隊という、きわめて中途半端な組織を題材としたため、どうあがいても感情移入できない。


「平安宮内庁」
 これは、とても違和感のない組み合わせ。あまりドラマ性はないので、豪華なセットやキャストで勝負するしかあるまい。興行的には厳しいだろう。


「開国海上保安庁」
 テーマは海。領海を侵犯するペリーと戦ったりする。ただし、江戸末期の時代設定に、海上保安庁をプロットとして組み込んでいくのは、かなり困難。


「縄文気象庁」
 、、まず無理。



注:作者は「戦国自衛隊」を観たことはない。



某月某日
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コンピュータのディスプレイを見つめます。

そのまま鼻をすすります。(ズルズル)

画面が揺れて見えませんでしたか?どうやら僕だけじゃないみたいです。良かった。



注:実験には鼻水が必要。



某月某日
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炎が、揺れていた。大ぶりの薪が、タイル張りの暖炉の中に積まれている。炎が、柔らかい光を撒くと、煙突に向かう薄い煙が、チラチラと照らしだされた。パチリ、かすかはぜている。

周りはみな、本や雑誌に目を落としている。僕だけが、じっと炎を見つめていた。窓の外では、雪が勢いを弱めることなく、降りつづいている。

その日の泊り客は、僕たち4人だけ。飛び込みの宿泊を快く承知してくれた宿の人が用意した夕食。鹿の刺身、茸を山ほど入れた鱒のホイル焼き、セロリを刻み込んだスープ、野菜を山と添えたステーキ、そして手作りの漬物。スキー場の宿で、これほど心づくしの料理に出会うのは珍しい。

夕食後、せっかく用意された暖炉に向かわないのは、あまりに無粋というもの。少し怪しい足取りで、暖炉の周りに置かれたソファーに身をうずめる。普段より量の多い夕食と、ビールのアルコールが眠気をさそう。

炎を見るのが、こんなに面白いものだったかと改めて思い直す。木から生まれた炎は、一時として同じ形を保つことはなく、燃えつづける。なんでもない木。そこから、突然炎が立ちのぼっている。すぐ後ろにそびえる雪山、降り続く雪の中に冷え冷えと立つ樹木。その中に、こんなに暖かい光が隠されていることを、どうして想像できるだろう。

薪が炎に変わってゆく。そんな不思議な光景。

一番太い薪が燃え尽きてしまうまで、ずっと見ていた。



某月某日
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シンニード・オコナーという歌手は、一時期、メディアから抹殺されていた。理由は、ローマ法王の写真を、あるテレビの生放送中に破いたから。キリスト教本来の教義に従えば、法王の写真を破こうと自分の兄弟の写真を破こうと、意味は同じだと思うが、そこはそれ全然違うわけだ。

あるいは、そのローマ法王が、サイクロンでぼろぼろになったインドを訪れている。ロングストレッチの完全防弾仕様メルセデスから降り立つ法王。着飾った人々が法王を迎える。柔らかい芝生の庭園、カトリック式の御香の煙、一面に撒かれた色とりどりの花びらの匂い。その塀の外。泥にまみれ、ゴミみたいになった被災者が映し出される、市中の惨状とのコントラスト。

非難する気は全くない。そういうものに対して、矛盾を感じたこともあった。が、今は感じなくなった。そこにあるのは矛盾ではなくて、世界そのものであることを知ったからだ。

そうした事件、あるいは景色が意味するのは「力」の偏在である。力の偏在という言い方自体、ある意味矛盾しているかもしれない。偏っていなければ、それは力とは言えない。そんな気もする。



某月某日
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ホテル前の路上、アスファルトに染み込んだ真っ赤な染みは、しばらく消えないだろう。事情を知っている人は、そこをよけて通る。それも、多分あと数週間のことだ。

新宿には、沢山のホテルがあり、僕もその中のいくつかを通り抜けて、会社に通っている。人が訪れ、いくらかの時間を過ごし、去る。中には、そこで生きることをやめる選択をする人も居る。日常のしがらみから少しだけ隔離された場所。ある種の決断を下すのに、向いているように感じられるのかもしれない。

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社会の中で生きている限り、自分の思い通りの選択をすることは、物凄く難しい。あまりにも多くの人が、僕たちの生活には関わり、あまりにも多くの出来事が、僕たちの生活を形作っている。自分では、それなりにいろいろとやっているつもりでも、実は平均的な人生。年齢と性別、職種と年収、学歴と住んでいる地域。そんなものを入力すれば、30年先までの出来事は統計的に予測可能だ。例えば、それを元に病気や事故の確率が計算され、保険料が決まる。

一月、5,600円。

自分の10年後が知りたければ、生命保険の外交員に聞けばいい。それなりに波乱万丈はあるだろう。それも、微細な「ゆらぎ」にすぎない。そう考えると、自分の意志なんて、どこにも無いのではないかと思う。



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しかし、一つだけ確かなこと。僕たちは、今日も「生きる」という選択をし続けているからこそここに居る。

この学校に入りたいと思っても、試験に落ちれば入れない。この商品が買いたいと思っても金がなければ買えない。この人と付き合いたいと思っても、相手にその気が無ければ付き合えない。

ところが、死ぬことはできる。もちろん、家庭や友人の存在が歯止めになることはあるだろう。それでも、自殺に試験はいらない。変な言い方だが、いつでも死ねる。しかし、生きつづけるという選択を、日々、自分自身でしている。自分の意志によって、この場所に居る。

そういう隣り合わせの感覚は、いつも感じるわけではない。

しかし、僕の足元に広がった痕跡が、その感覚を揺り動かした。



注1:本稿は、自殺を推奨するものではありません。
 注2:プライバシーに配慮し、一部事実と異なる記述があます。
 注3:作者の保険料は月額5,600円ではありません。



某月某日
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最近、朝はバス停まで森を通って(森があるんだ、悪いか)行くことにしている。昔、海外のマッサージで(怪しいのではない)「あなたは首がこっている。コンピュータに向かいっぱなしは体に悪い。ひまな時間は緑を見るように」と言われた。オフィスの観葉植物を凝視するわけにもいかないので、森を歩くことにしたのだ。

少し湿った落ち葉の上を、てくてく歩く。なんとなく、景色がギラギラしている。冬だから、森の落葉樹はみな葉を落としている。澄んだ空気の中で、枝と枝が無数に重なり合い、遥か遠くまで続く。それにしても、なんか景色が変だ、目が悪くなったのだろうか。



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昼、例の小料理屋に昼飯を食べに行く。

今日のオヤジはめちゃくちゃ機嫌が悪い。ランチ・メニューは天丼 or 銀睦の焼き物 or 鮭の西京漬け、(烏賊の湯引き山葵醤油、揚げの味噌汁、白菜と野沢菜の漬物、煮物付)だったのだが、メニューに揚げ物がある日は、たいていオヤジの機嫌が悪い。注文が揚げ物に集中すると、オヤジ独りでは手が回らなくなってしまうのだ。しかも、天丼は海老・茄子・ピーマンなどを何種類か揚げなくてはならず、ひときは面倒くさい。それだったら、揚げ物を出さなければいいのにと思うが、そういうものでもないようだ。

カウンターの向こうの雰囲気は、近年に無く最悪。しかし、大半のお客は常連で、オヤジの怒鳴り声には慣れたもの。しかも、実は、ここの店はオヤジが怒っている時が一番旨い。機嫌が悪ければ悪いほど、オヤジの仕事は冴え渡るのだ。だから、今日はひときは美味しかった。怒りの天丼。



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オフィスに戻って、ホロホロとメールを書いていると、同僚に「顔が赤いよ」と言われた。んー、つまり熱が出ているわけだ。どうりで景色がおかしかった訳だ。焦点があってないのだ。仕事はつづけたものの、とてもいまいち。

僕は許容動作温度の幅が狭いので、熱があるととたんに言動そのものから変化してしまう。(第三者の証言によれば、リアクションが全然変わるので直ぐに分かるらしい)こんなんでは、ミーティングに出たりしても変なことを言うだけなので、さっさと帰る。



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家に帰って寝た。

暇なので、静かに音楽をかけていると、まだ日も落ちたばかりだというのに暴走族が(いるのだ、悪いか)、うるさい。怒り狂っていると、体が回復してきた。怒るのも大切みたいだ。



某月某日
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人間ほど怖いものはない。

そういう風に教えられて育った。人間がいかに汚いことをし、いかに裏切るかを見て育った。

子供の僕にとって、決してよかったとは思えない。自分に子供が出来たとしたら、そういうものは見せたくないと思う。それはそれとして、僕がそういうものを見て育った事実は、消すことができない。

羊ページを見ている読者の方々は、このページの語り口が、どこか冷め切っていて、そして、人を見切ったようなところがあることに、気がついていると思う。それは、僕のそうした記憶が、僕の足を引っ張っている結果なのかもしれない。

それでも、不思議なことに、人を感動させるようなものが、たまには書けることがある。自分自身が信じていないような、希望とか、暖かさとか、そういうものが文章のカタチになって、人を喜ばせることが出来るのが不思議だ。

本当は信じている。だから書きつづける、たぶん。



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