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里芋とBCP

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2011年3月28日 月曜日
Aroids

Photo: "Aroids" 2011. Japan, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

ずっと続く緊張感。厳しい状況を伝え続けるニュース。

そんなものに段々疲れてきて、それでも、日常の諸々は無理矢理にでも元のオペレーションに戻ろうとあがいている。

輪番停電を前提にした BCP(business continuity plan) をどう作るかのミーティング、例えばそういう思いもかけないものが、予定表に割り込んでくる。


普段通りの事を、少し丁寧にしてみよう。沢山の事は出来ないから、少しのことを、時間をかけてやってみよう。

夜、スーパーにうずたかく里芋が積まれて、残っている。こんな時に、里芋を煮ようという人も居ないのだろうか。

二袋買ってきて、野菜の図鑑を見ながら下ごしらえする。生のままいきなり剥くんじゃなくて、熱湯に通すと手が痒くもならず、手で剥けるらしい。お湯を沸かして、ゆっくり里芋を湯通しする。生きていくのは、こういう事の積み重ねなんだと思う。


東京の今日の線量を基準に計算すると、0.1μSv/hの放射線量は3ヶ月で、約0.2mSv(0.1μSv/h x 24h x 30d x 3m)。キャンセルになった米国出張の二倍の被曝量。10年後、東京で過ごした日々を、僕はどう思うんだろう。

結局、数分煮たぐらいで、里芋の皮が剥けるはずもなく、ピーラーで剥く。台所中ドロドロになった。そんなに、うまくいくものでもない。



梅林の春

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2011年3月21日 月曜日
a little spring in the antro

Photo: "a little spring in the antro" 2011. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

枯れ葉の上の歩き、どんぐりをつつき、まだ芽を出さない枝を眺める。

あまり見るものがないなぁと、ずっと奥まで歩いて行くと、梅林だけが華やかだ。

湿った曇天に、揮発する梅の花の匂いが立ちこめている。春はここから来るのか。


切り倒された古い切り株の洞をのぞき込むと、そこにもちゃんと春が来ていたよ。



アンコウ鍋

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2011年3月2日 水曜日
sea devil hot pot

Photo: "sea devil hot pot" 2011. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

都心から地下鉄で少し、駅の階段を登るとすぐ国道が通っている。商店街も何も無いそんな道沿いに、古くからの鮨屋が一軒。

引き戸を開けると、カウンターはもうお客で一杯だ。座敷でビールを飲みながら、集合まで少し待つ。去年のアンコウ鍋会では、やや熱燗をがぶ飲みし、お会計もだいぶ大変な事になった様であり、今年はもう少しじっくり鍋を頂こうという感じ。


丸一匹分?だろうか。とんでもない量のアンコウが、野菜も控えめに大皿に盛られてくる。良く行く居酒屋の料理番が、今日は客の一人として、鍋奉行をしてくれる。

「料理人の手だから、そのまんま手づかみでいいわよね」

と、鍋にリズム良く具を入れていく。それが、妙に説得力があるのだ。


アンコウの身を山と鍋に入れて、とどめに、かぶせるように肝をどっさり載せる。もう、下の野菜も身も見えない。
あとは、グツグツ肝が煮融けるのを待つばかり。



・・・ネットは広大だわ。

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2011年3月1日 火曜日
Victoria Peak

Photo: "Victoria Peak" 2011. Hong Kong Island, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

ビクトリアピークに向かうトラムは、ちょっと意外なほどの急勾配をガタガタと登っていく。香港 = $1,000,000 の夜景 = Victoria Peak という公式は、当然すり込まれており、忠実にここまでやって来た。

トラムを降り、延々とエスカレーターを乗り継いでたどり着いた展望台は、ライトアップショウの時間を前にして、もの凄い混雑になっている。Peak とは言っても、展望台にのぼらないと、あんまり何も見えないのか。


毎晩 8時から行われるライトアップショウは、それでも連日なんとなく見ていると、そんなにたいしたものでもなく思える。さっさとショウが終わらないかと待っていると、やがて、展望台は空き始めた。

さて、噂の夜景は僕の世界ガッカリ観光地にランクインするのか、それとも素直に凄いのか。


そして、手すりから乗り出して眺めたその光景は、まさに攻殻機動隊 Ghost In The Shell のラストシーン、少女の義体に移植された草薙素子が「・・・ネットは広大だわ。」と呟く最後のカットの、あの世界。

そうか、ここからの景色だったのか、と、突然繋がった感じ。



初めて芝居小屋で芝居を見る

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2010年12月18日 土曜日
Hanazono Shrine

Photo: "Hanazono Shrine" 2008. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL, GR LENS F2.4/28.

新宿一丁目。隣に座る見知らぬ男が噛んでいるガムの、甘ったるい人工的な臭いが、とても不愉快だ。天井は低く、空気の流れは悪い。

「非常口が無いじゃないか」と友人はいささか怒っている。ここで火事が起こったら、逃げられないだろうな、と思う。細い階段だけが唯一の出入り口の地下一階。芝居小屋、というのがぴったりな、80名も入れば一杯の劇場だ。

芝居というものを、芝居小屋という空間で、初めて見た。それは、ちょっと予想外の体験だった。なんというか、極めて個人的な人生の断面を、のぞき見しているような、そんな感覚。


僕たちが最初に、芝居というものに触れるのはテレビの中だ。だから、テレビ以前とテレビ以降では、その印象というか衝撃というか、そういうものはかなり異なるだろう。テレビも映画もない時代に、芝居に触れた人の驚きと楽しさは、相当なものだっただろう。テレビで、中途半端な芝居体験を積み重ねてきた僕にとってさえ、けっこう衝撃的な体験ではあったのだ。

ライブビデオとライブが、全く違う体験であるように、芝居は体験としては、テレビよりも遙かに豊かである。例え、舞台がほんの数メートル四方の狭い、装飾も殆ど無い簡素なものだったとしても。その場限りという再演性の無さ、複製芸術にはない共有感。

しかしこれは、まったくスケールしないし、商売としては楽なものでは無い。結局あの日、観客とスタッフと、どちらが多かったのだ?パトロン無き時代の芸術とは、どうやって成り立つのか。そういうことを、また考えた。